第四五〇回 月例研究会 令和2年12月13日 しほんぎからよもとぎへ 名前が化けた四本木稲荷
有馬純雄
月次祭に向かうため拝殿前の鳥居を潜る神道大教の神官
私とよもとぎ
自宅と会社周辺の清掃活動を数年前から始め、その中間にある四本木稲荷(北区滝野川3-61)の境内東の沿道は季節に応じて落葉が多く、その清掃が日課になっていた。境内の管理整備は近隣で電気工事業を営む山口さんが先代宮司(代表役員)より任されてやっておられたが、広大な境内は一人では荷が重く、境内は草木が生茂り鬱蒼としていた。見かねて境内を掃除しようとしていた折の一昨年の12月19日、拝殿入口横に「代表役員変更のお知らせ」との文面が貼られた。
この度、四本木稲荷代表役員熊谷克子氏の辞任に伴いまして、新たに菊池重敏が代表役員に就任いたしましたので、お知らせ致します。当社をお世話されて居られます方、御手数ですが左記まで何卒御連絡戴きますよう宜しくお願い致します。
神道大教本局
東京都港区西麻布4-9-2
1月早々に私が出向いて現況をお聞きし、2月には菊池管長らが来られて今後の展望を聞かせて頂いた。それから一年が経過。今年1月より毎月13日に月次祭、3月23日には旧暦の初午祭、そして4月13日は例大祭が執り行われ、四本木稲荷は本来の神社の姿を取り戻した。日々の拝殿の扉の開閉と清掃は私が請け負い、神官は常駐されておらず、祭礼の折は、その神道大教本局より菊池管長らが見えられ御祈祷をされている。
荒れていた境内は昨年の3月頃より整備を始め、その後たくさんの方々のご支援、御協力を頂き、誰もが参拝しやすい境内となった。「明るく入りやすい神社になった」と周辺の方々よりご評価を頂いている。
四本木稲荷神社は、本会会報の第112号(平成26年5月)に高木基雄氏(王子田楽衆)が「七軒町(ななけんちょう)と四本木(しほんぎ)稲荷」、第129号(平成30年5月)に八木司郎氏が「滝野川四本木稲荷の奉納品について」を報告されており、それぞれ読み応えある詳細な内容である。また「北区史 民族編」の「滝野川地区の民族」に掲載され、当社の経緯と状況について触れておられる。左記はこれらの資料と本会の榎本氏よりご教授いただいた事をもとに纏めた当社の経緯と状況で、拝殿内に資料として置き参拝された方々にご自由にお持ち頂いている。
当社の祭神は「神道大教院」の奉斎する主神の御分霊、並びに「四本木、世基祇(よもとぎ)大神」です。昭和29年6月に宗教法人登記をされており、敷地は国有地です(神道大教院は全国の約130の教会や神社を包括する教派神道の一つ)。
「王子町誌」(昭和2年、王子町刊)に拠れば、当時周辺が明治38年に陸軍の雷光場(「らいこうば」、銃弾火薬の製造工場、後に造兵廠瀧野川工場となる)となる前より有った無名の小祠が源となります。
一方、その北方の下十條村七軒町(現・十条台、十条駐屯地正門付近)に、四種の樹木(サワラ、杉、樅、椎)に囲まれた王子稲荷分社の「四本木稲荷」(しほんぎいなり)が古くからありました。明治38年にその一帯が陸軍砲兵工廠(主に銃砲や銃弾製造、後に「造兵廠」となる)が設けられたため、陸軍が管理する営内(構内)神社となりました。
その後の第一次世界大戦をきっかけとする施設増強により、敷地の北東角地付近(現・稲荷公園の場所)に四本木稲荷は移転されました。当社敷地内にある多数の鳥居や灯篭、天水桶、手水鉢に刻まれた「火工廠」、「火具製造所」、「信管工場」、「圧延工場」、「銃砲製造所」、「精器工場」等の文字は、砲兵工廠の部門名です。毎年、4月には招魂祭と神社祭礼が周辺の方々も参加され盛大に執り行われていました(高木助一郎日記より)。
当社については王子町誌に「小祠を改修し、結構を改め、且つ当時の銃砲製造所長先導となって十條構内四本木稲荷神社から神霊遷しの式を行い、爾来四本木稲荷神社と称するので、祭典も十條構内の神社と共通に行うことになっている」とあり、造兵廠構内には南北(十條、瀧野川)二つの四本木稲荷が有ったことになります。
往時の四本木稲荷のお札。真中に「世基祇大神」とあり、左にはふりがなで「よもとぎ」の四本木稲荷神社
戦後、両社は陸軍の管理を離れ周辺地域の方々により祀られましたが、滝野川は梶田穣園氏が中心となって神道大教派の神社となり、四本木(しほんぎ)の四を世、本を基、木を祇と文字を移し替え、「よもとぎ」と呼ばせ世基祇(よもとぎ)大神を祀ることになりました。昭和40年代中頃に十条の四本木(しほんぎ)稲荷が公園拡張工事に伴い廃せられることになり、社殿、鳥居や灯篭、天水桶、手水鉢、狛犬等が当社である四本木(よもとぎ)稲荷へ移転されました。これによりそれまでの社殿が境内南に移設され、摂社としてその姿を残しています。
令和元年に、梶田(熊谷)家に替わり当社の包括団体である宗教法人神道大教院本局により直接運営されることになりました。
梶田穣園氏とよもとぎ
この文面の作成途中、境内社務所の片付けの最中に貴重な二点の資料を手に入れることが出来た。一つは神道大教院の広報誌「神道の友 昭和29年3月15日号」で、「宗教法人設立公告」の頁に「このたび神道大教の被包括宗教団体である左記教場が宗教法人法による宗教法人を設立することになりましたので宗教法人法第12条第2項の規定によって報告します 昭和29年3月15日」とあり、複数の設立者の一つとして「東京都北区滝野川三丁目六一番地 神道大教四本木稲荷神社 代表者梶田穣園」とあった。登記簿謄本をみると昭和29年6月23日が法人設立となっているが、これは手続き上の事と理解し、目的には「この法人は神道大教院に奉斎する主神の御分霊並びに世基祇大神を表明祭神として奉祀し惟神の大道を遵奉して神道大教の教義を払め(以下略)」とあり、「しほんぎ」を「よもとぎ」と呼び名を変えたのは梶田穣園氏であったと推察される。
そしてもう一つが神社に隣接する中央自治会の「文化部ニュース2号 昭和26年7月8日号」。「私はあくまで小公園を希望する」として大平豊永氏が記している。
昭和26年7月8日発刊の中央自治会文化部の広報誌
先日来、文化部及び会員皆様より多数、遊園地問題についてお問合がありましたのでお答え致します。皆様もご承知のように当町付近には小公園として八幡公園があるのみでそれも甚だ狭小の為め旧三町内の子供さんを満足させ得ないため昨年春、現区議阿子島氏に、旧造兵廠敷地内にグランド建設方を依頼致しました所阿子島は旧造兵廠内は財務局の管理下にあり、すでにその一部は都に移管し残りの一部は民間に払い下げとし、東京都としては、住宅不足解消の為、住宅敷地に決定したのでグランド建設はのぞめぬが、小公園位は出来る様になるとのお話しでありましたので其の後の協力方を願い置きました次第で御座居ます。
幸い、この度みな様の御支援により区議会議員にお送り頂きましたので皆様との公約もあり、早速造兵廠内に小公園設置の為、調査致しました所、都側も住宅建設するに付きそれに供する小公園として、自然公園化されている稲荷神社境内を残置するとの事で私とも非常に結構な事と存じますが、而し約四百坪の境内では公園としては未だ十分でないので此の際出来得る限り敷地を広く取り度い為、区の理事者との話合で稲荷裏敷地百坪住宅三棟分を他に移して頂く事にし、小公園地として五百坪を残す話合いも成った次第であります。
丁度其の頃、梶田さんから稲荷神社復興奉賛会と称すのを造り合せて遊園地の設置と云う事で署名運動された由、私も心から喜んで居りました処、梶田さんは区に土地払下げ方を請願致されたと聞き、いささか驚き公園敷地は如何なる理由によっても神社の為に払下げぬものと思っておりましたところ、梶田さんがわざわざ私共にお出で下され協力してくれと申されましたが、私と致しましては子供の遊び場を個人の所有地として取扱うのでは私の本意に反するので御協力出来ない旨お伝え致しました。
其の後聞くところによれば神聖なる境内を子供の遊場として汚す事は出来ないと申された由、甚だ残念な事と思います。私の念願する近設小公園は一部の方々からの支配を受けぬ自由に楽しく遊んで頂ける公園に致す考えであります。現在の四本木稲荷は御魂と申すのも無く勝手に梶田さんが堂々と申しますか地守と云いますか こういうことを考えて梶田稲荷に祭られとの事ですが、都及区の許可等もなく此の様に梶田氏の考へ得る如く神社境内のみに使用される場合は皆様の御趣旨に反する事と存じますので其の節は皆様の御意見によりあくまで小公園を希望し神社は他に移転されるよう努力致します。
尚小公園地施工着手については予算のあり次第で速に皆様の御期待に沿うように致します。
火薬粉製造用の円形の圧摩板を半分にして建てた雷汞場の忠魂碑は歴史遺産
この文面によれば、陸軍の兵器工場内にあった構内(営内)神社の四本木(しほんぎ)稲荷の敷地は約400坪あり、更に隣接する土地100坪を加えた約500坪の公園化計画が東京都、北区、地元で進められていた事。それに対して梶田穣園氏らが稲荷神社復興奉賛会の名のもと、旧稲荷神社敷地の全てを譲り受け新たな神社を設立し、神社敷地内の空地は子供の遊び場としての自由な出入りは認めないと表明した事。旧神社には御魂はなく梶田氏は東京都や北区の許可なく梶田稲荷を祭ろうとしている事。従って梶田氏への敷地譲渡には反対し、旧神社敷地の公園化に速く対応したいので支援頂きたいとしている。
結果として、一年後の昭和27年7月31日に都有地となった旧神社の敷地の約半分の183坪が「区立四本木児童遊園」として開園され、残りの敷地が国有地のまま神道大教四本木(よもとぎ)稲荷神社となったことになる。
梶田穣園氏についての記録はなく、逝去された年月も現在不明で、ただ拝殿前の鳥居裏燈篭に刻まれた名前のみである。妻の梶田みつ(美津子)氏が昭和46年2月3日に代表役員に就任されているが、昭和51年5月27日に逝去され娘の熊谷克子氏が継がれて、令和2年2月25日に神道大教院の管長である菊池重敏氏が代表役員に就任されている。
当社が十条台の四本木稲荷の社殿等を譲受した経緯、梶田穣園氏の経歴、そして当社を支援された役員、氏子の方々の活動とともに往時の状況等、調査せねばならない事は数多くあり、今後、発表の機会が有れば幸甚である。
境内には、歴史遺産と言ってもよい陸軍関係者から奉納された数多くのものがあり、当社が神社として栄えると共に歴史ミニテーマパークとなれば、と期待するところだ。
goo 古地図昭和22年より転載
写真真ん中の旧造兵廠の敷地一角が四本木稲荷
goo 古地図昭和38年より転載
写真真ん中の敷地の下半分が四本木稲荷で残りが四本木児童遊園。
周囲は木造戸建ての都営住宅が並ぶ。
第四四三回 月例研究会 令和元年12月3日 瀧野川八幡神社の一年とその歴史的経緯
有馬純雄
自宅近隣の瀧野川八幡神社で12月定例会が出来ないか、と馬場さんに問われ、同社藤井知樹宮司に願い出たところ快諾頂いた。今年7月中旬より朝の一時間程、境内の清掃を続けて顔馴染みとなり、それを運営委員会で話していたからだ。当日は生憎の冬の雨に開催が危ぶまれたが、大澤会長、馬場さんを始めいつもの会員の方々が参加された。同社の由緒を北区教育委員会が纏めた境内入口鳥居脇の案内看板から見てみよう。
八幡神社 北区滝野川五‐二六‐一五
拝殿より正殿をのぞむ
八幡神社は旧滝野川村の鎮守で、地元では滝野川八幡と称されることもあるようです。神社の祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと 応神天皇)で、創建は建仁二年(一二〇二)ともいわれていますが、詳細は不明です。社殿の裏手からは縄文時代後期の住居址が発見されており、社地は考古学的にも貴重な遺跡に立地してます。神仏分離以前は石神井河畔にある金剛寺が別当寺でした。明治初年には大塚の天祖神社神職が祠掌を兼務していたようです。現在の本殿は明治十七年(一八八四)に改築されており、拝殿は大正十一年(一九二二)に修築されています。本殿に向かって右に神楽殿が左には社務所が配置されています。境内には、冨士・榛名・稲荷の三つの末社があります。このうち、特に榛名社については、村民が農耕時の降雨を願い上州の榛名山より勧請したもののようです。
神社の社務所は終戦直後まで、旧中山道に面した滝野川三軒屋の種子問屋が中心となっていた東京種子同業組合の会合場所として利用されてきました。組合ではここで野菜の種子相場(生産者からの引取価格)の協定をしたり、東京府農事試験場に試作を依頼していた原種審査会の表彰などを行いました。
土地を寄進した記念碑
明治9年の神仏分離の後は大塚の天祖神社が兼務をしていたが、その後、神職が常駐するようになり、今の藤井宮司が新任された。藤井宮司により拝殿に招かれ正式参拝させて頂き、正殿、幣殿、拝殿の構造等をお聞かせ頂いた。その後、八幡神社年中行事一覧を下に毎月の恒例行事と令和元年のみの行事について説明を受けた。
一月一日に歳旦祭、二月三日に節分祭、五月十五日に中祭、六月三十日に夏越大祓、九月十五日に例大祭、十一月を通して七五三、十一月十五日に新嘗祭、十二月三十一日に年越大祓、各月一日と十五日に月例祭が執り行われる。令和元年のみ五月十二日に御即位奉祝宮神輿渡御、十月二十二日に即位礼当日祭、十一月十二日に臨時大祓式、同月十四日に大嘗祭当日祭が執り行われている。
瀧野川町建立の記念碑
境内には幾つかの石碑があり、社務所より拝殿に渡る廊下左に設置された「土地壹百貮拾坪」と真ん中の大きく彫られ、右に「神域拡張用」、左に「寄進者越部浅五郎」と刻まれたものを私が説明させて頂いた。越部は冒頭の説明文にある東京種子同業組合の組合長として種苗業界を牽引したマル浅当主、帝国種苗殖産㈱の初代社長であり、また大正6年から四年間、瀧野川町長に就いた。八幡神社を隆盛に導き、その歴史的経緯を語る上で欠かせない人物だ。同社の本殿、拝殿の修築、改築等の費用は、越部を始めとする種苗業者が中心となって行われたと思われ、社殿の装飾にもそれが垣間見られる。
板橋町一丁目建立の記念碑
八幡神社には地域史を物語るものがある。一つが拝殿に向かう階段右手前の説明板を掲げる石組の台。裏手の石板には「瀧野川町制施行 廿周年記念 昭和七年九月吉日 瀧野川町役場」。大正二年に「町」となり七年九月に瀧野川区となる時に建てられたものだが、「瀧野川町」の存在を表すものとして貴重な存在である。 また、階段右の「皇太子殿下誕生記念樹」と刻まれた石碑の裏面には「昭和九年一月十五日 板橋町壹丁目町会」とある。皇太子は現在の上皇陛下であり、板橋町一丁目は明治22年の町村制施行に伴い同町になったもののそれ以前は瀧野川村の一角で、八幡神社の氏子地域であった事を示すものである。 本会報前号に「区内村落の鎮守社と寺院支配」(榎本龍治氏)が掲載され、金剛寺の別当として八幡神社境内地図もあり江戸時代末期の状態も推測できる。
廃橋される十条跨線橋の移転存続と展示を求め
私が地域史にのめり込む切掛けは、王子法人会の広報誌に十条跨線橋と環七の平和橋を思うままに書いた事。その十条跨線橋が無くなるという。その経過を知りたく北区の担当部署に電話で訊ね概略をお聞きし、併せて北区議会ホームページ掲載の議事録を開けてみた。以下、その概略である。
北区議会建設委員会は平成29年11月27日に北区土木部土木政策課より「東十条駅南口駅前空間整備の方向性について」報告を受けている。その要旨には「東十条駅南口においては、十条跨線橋架替えと駅前空間の一体整備をという地域からの強い要望を受け、橋梁の架替えを急ぎつつ一体整備の実現に向けて、JRと検討を行ってきた」とあり、今後の予定として「平成30年度 鉄道施設への影響検討(その2、JR委託)調査完了 事業実施に向けた基本協定をJRと締結」「平成31年度 設計業務着手(JR委託)」とある。
『掛替え』とある以上、十条跨線橋の運命は廃橋であり、それが一部でも区内で存続、展示出来ないかを青木博子区議会議員に相談させて頂いたところ、議会に陳情書を提出されてみればとのアドバイス。提出期限ギリギリに間に合い9月4日の議会建設委員会にて審議頂いた。
「十条跨線橋の一部を歴史遺産として保存、展示する事の陳情書」
(要旨)東十条駅南口の利便性改善のため同駅新駅舎及び取付道路の事業実施に向けた基本協定が北区とJR東日本の間で平成30年度内に締結の予定である。これに伴い十条跨線橋は解体撤去されるが、その一部を北区の歴史遺産として、保存、展示し「鉄道の街北区」のモニュメントとなる事を陳情する。(理由)十条跨線橋は、明治28年に架設された東北線旧荒川橋梁の四連トラス橋部分(複線、一連の径間100ft.、ポニーワーレントラス構造、英国コクラン社製)の一連を昭和6年の下十条(現東十条)駅開設に併せ、南口取付道路の一部として東北線を跨ぐ跨線橋として転用、竣工した橋である。通算123年の永きに亘り、北区内外の交通の動脈を担い、また地域の産業振興や住民の安全な往来、電車乗降の利便性に貢献してきた。北区の産業及び交通に関わる遺産であり、北区の歴史を物語る貴重な存在である。本橋と同時期、同規模、同構造の東海道線旧六郷橋(多摩川、1877年竣工、英国ハミルトン&ウインザーアイロン社製、2009年近代化産業遺産群・続33の540件中の一つ)が博物館明治村に移設展示されており、十条跨線橋の歴史的価値は同程度と言えよう。近現代の歴史遺産と雖も地域の付加価値を引上げる要因となる事から、ここにその移設展示を求め陳情する。
平成30年9月4日 東京都北区議会議長殿
「陳情結果について」
東京都北区議会議長 榎本はじめ
あなたから提出されました陳情については、平成30年10月5日開会の本会
議において下記のとおり決定しましたのでお知らせします。
記
審査結果 意見付き採択 (意見)趣旨に沿うよう努力すること。
十条跨線橋の見所
1.約30m(99ft.)径間の荒川橋梁を転用して設置するため、東側にコンクリート製橋脚を建設している。道路幅員は約5.5m、橋梁の高さは約3m(10ft.)。 2.鉄道橋であるため道路橋へ転用するに当り床板(コンクリート)が置かれ、車両や人が転落しないよう側板が張られている。 3.一般的なトラス橋と異なりポニーワーレン構造の本橋には左右の上弦材を繋ぐ上横構がない。左右の主構(トラス構造)は下弦材を結ぶ横桁が繋いでいる。その横桁が優美な魚腹形となっている。 4.斜材はピン結合(六角の大きなボルトの外観部分)により上弦材と下弦材に接合されている。荷重の違いにより斜材の形状(帯材とレーシング)が違う。 5.上弦材、下弦材、端柱が一体構造であり、各端部は優美な形状である。 6.端柱の下部二か所に製造会社の銘板が損傷を受けず現存している。COCHRANE&Co. 1895 DUDLEY ENGLAND 7.通行台数の増加に伴い1969年に赤羽側に人道橋が併設されたが、横桁間の中間、左右の下弦材の上にH型鋼を並べ、H型鋼は人道橋を支える長さを持たした。本橋はこれらの部分的な改造だけに止まりオリジナルを保っている。 8.王子側には「地蔵坂人道こ線橋」が1984年に建設されたが、本橋とは自立した別構造。これらの両側の人道橋により橋梁構造が観察出来る。 9.本橋西側には線路に沿った道路があり、橋下部構造を眺められる。 |
本橋の歴史的価値
博物館明治村に保存された登録文化財の東海線旧六郷橋は、本橋より17年早く竣工(製造は1875年)した日本で最初の鉄製(錬鉄)複線100ft.である。しかし、1915年に御殿場線第二酒匂川橋梁へ移転、転用される際に、単線用へ横桁を短縮して幅員を狭め(主構中心間隔約7.4mから約5.2m)、また河川と線路のずれから主構を右75度ずらす等、大幅な改造を受けて供用された。そして明治村に展示されるに当り当初の構造に復元され展示されており、オリジナルを保ち続けたとは決して言えない。第二酒匂川橋梁には同様な改造を受けたものがもう一本有って、これはJR東海総合研修所(旧国鉄中央鉄道学園)敷地内へ移転(1965年)。1967年に当時の国鉄より「鉄道記念物」に指定され、元の形に復元されずに現在も保存展示されている。 十条跨線橋は、道路橋への転用と人道橋の併設という小規模な改修を受けたに過ぎず、全体形状を維持しており産業遺産として歴史的価値は高いと考えられる。 |
本橋の兄弟橋がモニュメントに
1929年に解体された旧荒川橋梁は、十条跨線橋へ、群馬県みなかみ町の利根川を渡る「大鹿橋」(1965年撤去)へ、そして川崎市幸区小倉と横浜市鶴見区矢向に跨る「江ヶ崎跨線橋」の一部として転用され、残る一連は廃棄された。江ヶ崎跨線橋は、常磐線旧隅田川橋梁として使われたプラットトラス橋と共に2009年に廃橋となったが、ポニーワーレントラス橋の一部が川崎市により「旧江ヶ崎跨線橋モニュメント」として展示されている(江ヶ崎跨線橋西交差点角)。その形態的特徴である端柱と上弦材が一体構造となった優美な部分を横約1.2m、縦1.0m切り取り、歩道角に説明版とともに設置されている。ある調査資料(*)によれば下弦材の老朽化が激しく構造物としての再利用は不可能であることが解体の過程で明らかになったとの事だ。また今後多くの市民に安全性を確保して親しまれながら歴史資料として触れられるよう、この形状寸法になったと思われる。 *江ヶ崎跨線橋200ft.プラットトラス構造的特徴と歴史的評価 五十畑 弘 |
十条跨線橋の終わりの始まり
十条跨線橋は土木学会の「歴史的鋼橋」として選定され、登録番号はT3-013。その土木史的評価を踏まえ陳情書とは異なるが、博物館明治村やJR東海総合研修所と同じく、橋梁全体を移転存続するのが最善ではなかろうか。
この地、北区と本橋の120年余りの縁が、北区の将来への橋渡し役を担ってくれることを期待したい。
「製麻の池」と「製麻のポー」~日本製麻赤羽工場
概要
大正4年より昭和2年まで赤羽駅東に敷地約6haの日本製麻㈱赤羽工場があった(昭和2年の倒産後、帝國製麻㈱倉庫となり西側の2棟は空襲で焼失。東棟は日本染色㈱工場、その後ダイエー赤羽店となる)。職工数は最盛期2,100人を超え、敷地内に多くの独身寮と社宅(310棟)が拡がり赤羽の街は賑わった。
当時の岩淵町、王子町には製糸(小口組)、毛織(東京製絨)、紡績(東洋紡績)、製麻(日本製麻)と総ての繊維業が揃い、製糸を除けば職工数2,000人規模の大工場が林立。中でも開業新たな日本製麻は職工の待遇は模範的と評価されていた(「職工問題資料」による)。
表1 大正期の岩淵町、王子町の繊維工場
事業所名 所在地 大正12年職工数(1) 6年職工数(2)
日本製麻㈱赤羽工場 岩淵町赤羽 2,139人 不明
㈱小口組赤羽支店 岩淵町赤羽 不明 670人
東京製絨㈱王子工場 王子町榎町 1,683人 2,518人
東洋紡績㈱王子工場 王子町船方 2,111人 856人
(1)は「職工の福利増進施設概要」
(2)は「北豊島郡誌」
日本製麻㈱赤羽工場とは
インターネットは便利なものだ。「日本製麻赤羽工場」と入れヒットを暫く見ていると、その絵葉書があるという。 早速注文したその中には初見の「製麻の池」があり、同工場再調査の切欠となった。同工場については「新集北区史」に次ぎの記述がある。
写真1 大正4年7月開業当初の日本製麻赤羽工場 写真2 昭和5年頃の赤羽本町商店街
地図1 昭和初期の赤羽 地図中央に「製麻の池」 写真3 昭和5年頃の赤羽本町商店街
「当時(大正2年頃)、赤羽の地主達はこの噂が出ると「御嶽さん」の近くには小口製糸工場があるのに赤羽の線路からこっち(今の東側) には工場がない、なんとかして工場を持ってきたいというので日本製麻の誘致問題が起きた。尾久や三河島でも誘致運動が行われたというが、それと競争して遂に今のすずらん通り南側に日本製麻赤羽工場を持って来るのに成功した。 田圃が埋め立てられて赤い煉瓦の建物が出来て職工がどんどん入り込んできた。今の赤羽小学校の南側に職工の社宅が並び更に工場を取り巻いて次第に社員住宅がどんどん増加していった。町の商人達は会社へ納める仕事が立ち、 町全体が活気を帯び新しい「移住者」が相次いで町へ入ってきた。一時は製麻会社の力が町のあらゆる面に大きく響いて町が随分製麻会社の受ける点も少なくなかった。「被服廠」などのような軍関係工廠は多くの職工や勤労者を抱えて毎日出勤しても町に金を落とす点は少なかったと言って良く、 やはり製麻会社工場のように民間会社の社員や職工の方が遥かに町に生活面での金を落としたと言って良い。 それで次第に商店なども増加していって赤羽の「新町」が出来ていったのもそうした関係も有っての事であった」
平成25年12月の北区史を考える会定例会において、同社の経営面と役員構成の変化等を主体に構成し解説した。今回は職工(従業員)の待遇
と労働環境、また当時の赤羽、王子界隈と諸工場(主に紡績業)との比較等から、その特異性について調べ発表した。
「製麻の池」は、工場建設に当り工場建物基礎の土盛の土砂を堀上げた窪地にできた池だと渡辺肇氏が「赤羽漫歩」(昭和63年6月号)に寄稿した文面にある。
工場敷地が7町歩とされ、地図を見ればその25%前後はあったようだ。同社は昭和2年に倒産、帝國製麻に吸収され操業を止め倉庫
となり、池は周辺の人々の憩いの場なったと書かれている。この池に注目したのが、全国的に大工場(主に繊維業)の職工の寮や社宅を調査した
「職工問題資料」(F78)大正11年7月号で、「東京方面の工場に於ける模範的施設 ⑴日本製麻赤羽工場と富士瓦斯紡川崎工場」を掲載。その記述が下記である。
第一図 昼食後、社宅より工場に向かう職工 第二図 女工寄宿舎の前の庭
「東京府北豊島郡岩淵町大字赤羽にある、日本製麻株式会社赤羽製品工場は職工二千余名を使用する、中工場(注1)であるが、総ての施設が帝國製麻と 同様に行き方を仕た、一種の製麻型を形成して居て、他の紡績会社とは選を異にしている(注2)のである。第一図の社宅の職工が昼飯を自宅へ食べに帰って、 汽笛の音に促されて急ぎ足に入場すると云うのも、亦た一種の製麻型で、製麻会社以外には見られぬ、よいならわしであるのである。お茶を工場で貰って、自分の家へ帰って昼飯を食べて来る。と云う
第三図 製麻の池畔に建てられた社宅 第四図 製麻の池の小島には來寶神社
唯だこれ丈の事ではあるが、何となく、家庭的で自由な温かい心持ちする行き方であって、職工の心理に良い影響を與え得る(注3)のである。第二図は女工寄宿舎の一部である。
平屋建ての〇の廣い寮舎、さうして庭前には種々の樹木を植え込んで、風致極めて美しいのである。第三は、工場の付近にある。大きな池を
利用して、其岬に社宅を建築し、採光、通風、清涼、風致を計った面白い事例である。第四は、其池の中の島に鎮座した、此の工場に守り神の社である」
(注1)については大正12年東京府発行の「職工ノ福利増進施設概要」に大小工場の詳細な記載があり、その一部を表2に纏めた。最多職工数は東京モスリン紡織吾嬬工場は現在のダイトウボウ㈱だ。
表2 工場規模の大中を判別した員数とその学歴分類
日本製麻赤羽工場
小学未了 小学修了 高等修了 中学修了 高等修了 合 計
男 159 386 173 18 0 736
女 428 762 209 4 0 1,403
計 587 1,148 382 22 0 2,139
東京モスリン紡織吾嬬工場
男 130 269 175 11 0 585
女 1,763 2,172 280 0 0 4,214
計 1,893 2,441 455 11 0 4,799
(注2)については、東洋紡績の前身の三重紡績が操業開始前(明治19年)に策定し同業各社に敷延したとされる「営業規則」(就業規則)にその違いの要因があろう。
紡績工場は時間に対して厳しい就業が課せられていた。
「第二条 就業時間は毎日日出より日没までと定め各受持ちの場所を離れず其業に従事すべし。(21年の操業開始より昼夜12時間の二交代制を採り夏季は13時間の長時間となり午後3時に小食があった)
第四条 毎朝出場は始業時刻より15分前たるべし、而して汽笛を聞いて各其業に就くべし 第五条 休憩時間は午前午後15分間、喫食時間は午下30分間等しく汽笛一声を以
てこれを報ずべきものとす」
注3)については、日本製麻の広報誌「製麻時報」(大正 年 月号)には「日本製麻会社の職工待遇」との記事がある。筆者は「一記者」としてある。
写真4 日本製麻赤羽工場内 写真5 日本製麻赤羽工場内
「職工は工業の中堅にして、其能率の程度は事業の消長に多大の関係を有するは今更云う迄もない。而して是等職工の充実を求むるには主として其待遇を握くし、之れが保護に
努めなければならぬ。是れ云う迄もなく相互の利益であると共に両者提携の楔子である。(中略)同社は疾くより此主義を実行し来つたので会社の今日あるは偶然でない事を知つた。
同社は創業以来一に温情的優遇方法を採り(以下略)」
なお、両工場とも操業開始が大正4年の第一次世界大戦中の好景気で、職工確保が困難と思える時期の対策ではなかったかではなかろうか。
就業時間と「製麻のポー」
同社は大正9年に浦和工場を新設したが、昭和2年に倒産し同工場も閉鎖された。東京日日新聞(昭和2年2月18日号)は次のように報じている。
「大宮の片倉製糸に次ぐ三百尺の大煙突は前後七ケ年寸時も休みなくもうもうと黒煙を吐いていた製麻の煙がハタと立たなくなり同時に浦和、木崎、与野、土合に重宝かられてをつた
一名物「製麻のポー」も聞かれなくなる。朝六時のポーが目覚まし時計代り九時が役所学校の始業報知で正午と六時の飯時とポーの恩恵に浴しつつ掛時計は買わずにすまして来た家は
少なくなかった」
昭和4年の工場法施行まで殆どの紡績工場は昼夜二交代操業であり、日本製麻も同様であったことを裏付けるものである。昼組は朝6時より夕6時まで、夜組は夕6時より朝6時までの就業で、日曜を休みとし一週間おきに交替していた。
前述の同社職工待遇に記述では「休業時間の増加 寒暖の候には操業時間昼夜業共各30分宛短縮し勤務上の労苦を減じ休業を為さしめ労務上より来る疲労の恢復を図り元気の作與に勉めて居る」とあり、ここでも昼夜二交代であると分る。
浦和工場と同様に赤羽工場でも「製麻のポー」は内外に鳴り響いていたはずであり、大正時代の赤羽界隈の風物ではなかったかと、思い巡らす。
写真6 日本製麻浦和工場 現在の常盤町にあり、倒産後藤倉ゴムの工場となる
写真8 日本製麻の広報誌「製麻時報」掲載の記事
「トト姉ちゃん」のトトは赤羽(北区)に来ていた~大橋武雄と日本製麻
北区史を考える会 置き薬協会 有馬純雄
NHKの朝の連続ドラマ「トト姉ちゃん」が好評である。ヒロインのモデルは、「暮しの手帖」を創刊し
た大橋鎭子。タイトルの「トト姉ちゃん」は、父親の役割も果たすので付けられたヒロインの仇名である。
そのトト、父親が日本製麻㈱に勤務していた事を知り、数年前に同社を研究したこともあって、早速、大橋
の生涯を綴る著書「暮しの手帖と私」を買い求めた。
父親の大橋武雄は、現在の岐阜県大垣市に生まれ、10歳の時に東京市深川区の材木商、大橋谷吉、き
ん夫妻の養子に入った。府立一中在学中に、級友に誘われ北海道帝国大学に入学。大学在学中に妻と
なる宮原久子と知り合い卒業後に結婚する。
日本製麻㈱本社社屋 帝国劇場裏、現在の新国際ビルのある位置 大正8年頃 大戦景気の賜物。
大正4年の操業開始当時の日本製麻㈱赤羽工場 右角の入口が現在のみずほ銀行支店の位置 工場左角が現在のダイエーとなる 左の屋根は赤羽(岩淵)小学校 当時の飛行機の翼は麻を用いるため赤羽飛行機製造所(岸一太)が本工場の裏に有り、 また帆船の帆の工場など周辺には関連業者が集まった。
就職先は、日本製麻㈱。入社の大正8年3月の一か月前に、同社は第一次世界大戦の戦時景気で
飛躍的に発展し、日比谷の帝国劇場裏一等地に地上3階地下1階の本社ビルを竣工させていた。鎭子
は9年3月に誕生し、大正10年に大橋武雄は北海道小沢工場の工場長として赴任する。入社から工場
長就任までたったの2年である。大学出とは言え年齢も24、25歳の若者が工場長に就くのは、生産増
加のため管理職の員数が逼迫していたからだろう。大正2年の同社創業から大正10年の僅か8年間に
、北海道に19か所の工場を設置しているのが、その裏付けである。また、当時の大学出の管理職、所
謂「ライン」はそうだった。
北海道の各工場は製線工場と言われ、原料から繊維を取出して紡績し、
その糸は集荷され東京府北豊島郡岩淵町赤羽の製品工場に送られ用途に合わせて様々に製品化されて
いた。
武雄は入社から北海道に赴任するまでの2年間、本社勤務と思われ、赤羽工場には様々の事由
で来訪していただろう。また同社は9年に主に蚊帳製造の浦和工場(常盤町)を竣工し稼働させてい
る。
武雄と妻久子、長女静子を引き連れての小沢工場の赴任の後、岩見沢工場、虻田工場と道内(地図
参照)の工場の転任を重ねるなか、結核で体調を悪化させ大正15年に退職する。それは日本製麻㈱が
帝国製麻㈱に吸収合併(過剰設備と輸出激減の構造不況対策で政府主導による。昭和2年の金融恐慌
の端緒となった東京渡辺銀行は日本製麻の主力銀行。赤羽工場は以後帝国製麻倉庫となった。)され
る前年だった。
「帝国製麻30年史」掲載の製麻企業の製線工場分布図。寒冷な土地を好む亜麻は、戦前まで北海道 の最大の農業生産品だった。戦後、化学繊維の発展により、その生産は壊滅的となった。現在は、健 康食品として注目される亜麻仁油生産のため少量が生産されている。因みにLINE(線)は亜麻の 形状が由縁とされている。「亜麻色の髪の乙女」の亜麻色とはブロンドの事。亜麻糸を脱色しない色 である
大橋の著書「暮しの手帖とわたし」で日本製麻㈱の説明に「日本橋の日本製麻」としているが、これ は誤り。日本橋のそれは帝国製麻㈱である。このビルは昭和39年に大栄不動産へ売却され平成4年 に解体。
旧 大栄不動産㈱本社ビル (元帝国製麻㈱本社ビル) 概要
旧 大栄不動産㈱本社ビル (元帝国製麻㈱本社ビル) 概要
地域史研究者 有馬純雄(北区在住)
大栄不動産㈱本社1階ロービーに展示される模型
参考資料
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1.「麻業の友第88号」(大正4年9月20日発行、帝國製麻 製麻倶楽部刊)
通信P14~P18「本店通信」本店 板谷淇水著 - 2.「帝國製麻30年史」(昭和12年10月30日発行、帝國製麻㈱刊)
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3.「製麻時報第2巻第3号」(大正8年3月15日発行、日本製麻㈱社内報)
「製麻側面史、追懐談(6)甘辛堂主人(宮内専務)談」 - 4.「工学博士辰野金吾傳」 白鳥省吾著 辰野葛西事務所刊(大正15年)
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5.「辰野金吾 美術は建築に応用されざるべからず」
河上眞理 清水重敦著 ミネルヴァ書房刊 - 6.「日本財閥経営史 安田財閥」 由井常彦著 日本経済新聞社刊
設 計 | 辰野金吾、葛西万司(辰野、葛西設計事務所)大正元年11月完了 「新式、美観、広壮ではなく安政大地震級の大地震にも耐えられる設計」(30年史) |
施 工 | 清水組(現清水建設(株)) |
構 造 | 地上4階建て、地下1階、屋上階に露台、ルネッサンススタイル、鉄骨煉瓦造 ただし鉄骨による床構造は3階までで、4階床は木造と思われる。 |
竣工した日本橋 手前に市電仮橋 |
左の大きな屋根が旧本社 着工直後 |
鉄骨組立中で4階床構造がない |
上棟式の写真も同様で木製なのか? |
住 所 | 明治~大正期 | 日本橋区品川町裏河岸第17号~第20号(旧本社は第3号) |
昭和期 | 日本橋区室町1丁目1番 | |
現在 | 中央区日本橋室町1丁目1番8号 |
大正初期の日本橋と帝國製麻本社屋 |
「日本橋周辺の建物(西川商店、伴傳、大倉書店、村井銀行、森村銀行、あかぢ貯蓄銀行、国分商店、三越)に比較して規模は小さいが、自社の業務のみに使用されるのが特徴で、本社社員、地方在勤の社員共に喜ぶ」と社内報「麻業の友」には記されている。 |