「製麻の池」と「製麻のポー」~日本製麻赤羽工場

概要

 大正4年より昭和2年まで赤羽駅東に敷地約6haの日本製麻㈱赤羽工場があった(昭和2年の倒産後、帝國製麻㈱倉庫となり西側の2棟は空襲で焼失。東棟は日本染色㈱工場、その後ダイエー赤羽店となる)。職工数は最盛期2,100人を超え、敷地内に多くの独身寮と社宅(310棟)が拡がり赤羽の街は賑わった。 当時の岩淵町、王子町には製糸(小口組)、毛織(東京製絨)、紡績(東洋紡績)、製麻(日本製麻)と総ての繊維業が揃い、製糸を除けば職工数2,000人規模の大工場が林立。中でも開業新たな日本製麻は職工の待遇は模範的と評価されていた(「職工問題資料」による)。

表1 大正期の岩淵町、王子町の繊維工場

事業所名         所在地  大正12年職工数(1)  6年職工数(2)

日本製麻㈱赤羽工場  岩淵町赤羽       2,139人      不明

㈱小口組赤羽支店   岩淵町赤羽         不明     670人

東京製絨㈱王子工場  王子町榎町       1,683人     2,518人

東洋紡績㈱王子工場  王子町船方       2,111人      856人

(1)は「職工の福利増進施設概要」

(2)は「北豊島郡誌」


日本製麻㈱赤羽工場とは

 インターネットは便利なものだ。「日本製麻赤羽工場」と入れヒットを暫く見ていると、その絵葉書があるという。 早速注文したその中には初見の「製麻の池」があり、同工場再調査の切欠となった。同工場については「新集北区史」に次ぎの記述がある。

日本製麻赤羽工場 赤羽本町商店街

写真1 大正4年7月開業当初の日本製麻赤羽工場 写真2 昭和5年頃の赤羽本町商店街

 
「製麻の池」 赤羽本町商店街

地図1 昭和初期の赤羽 地図中央に「製麻の池」  写真3 昭和5年頃の赤羽本町商店街


 「当時(大正2年頃)、赤羽の地主達はこの噂が出ると「御嶽さん」の近くには小口製糸工場があるのに赤羽の線路からこっち(今の東側) には工場がない、なんとかして工場を持ってきたいというので日本製麻の誘致問題が起きた。尾久や三河島でも誘致運動が行われたというが、それと競争して遂に今のすずらん通り南側に日本製麻赤羽工場を持って来るのに成功した。 田圃が埋め立てられて赤い煉瓦の建物が出来て職工がどんどん入り込んできた。今の赤羽小学校の南側に職工の社宅が並び更に工場を取り巻いて次第に社員住宅がどんどん増加していった。町の商人達は会社へ納める仕事が立ち、 町全体が活気を帯び新しい「移住者」が相次いで町へ入ってきた。一時は製麻会社の力が町のあらゆる面に大きく響いて町が随分製麻会社の受ける点も少なくなかった。「被服廠」などのような軍関係工廠は多くの職工や勤労者を抱えて毎日出勤しても町に金を落とす点は少なかったと言って良く、 やはり製麻会社工場のように民間会社の社員や職工の方が遥かに町に生活面での金を落としたと言って良い。 それで次第に商店なども増加していって赤羽の「新町」が出来ていったのもそうした関係も有っての事であった」


 平成25年12月の北区史を考える会定例会において、同社の経営面と役員構成の変化等を主体に構成し解説した。今回は職工(従業員)の待遇 と労働環境、また当時の赤羽、王子界隈と諸工場(主に紡績業)との比較等から、その特異性について調べ発表した。
 「製麻の池」は、工場建設に当り工場建物基礎の土盛の土砂を堀上げた窪地にできた池だと渡辺肇氏が「赤羽漫歩」(昭和63年6月号)に寄稿した文面にある。 工場敷地が7町歩とされ、地図を見ればその25%前後はあったようだ。同社は昭和2年に倒産、帝國製麻に吸収され操業を止め倉庫 となり、池は周辺の人々の憩いの場なったと書かれている。この池に注目したのが、全国的に大工場(主に繊維業)の職工の寮や社宅を調査した 「職工問題資料」(F78)大正11年7月号で、「東京方面の工場に於ける模範的施設 ⑴日本製麻赤羽工場と富士瓦斯紡川崎工場」を掲載。その記述が下記である。

社宅より工場に向かう職工  女工寄宿舎の前の庭

第一図 昼食後、社宅より工場に向かう職工  第二図 女工寄宿舎の前の庭


 「東京府北豊島郡岩淵町大字赤羽にある、日本製麻株式会社赤羽製品工場は職工二千余名を使用する、中工場(注1)であるが、総ての施設が帝國製麻と 同様に行き方を仕た、一種の製麻型を形成して居て、他の紡績会社とは選を異にしている(注2)のである。第一図の社宅の職工が昼飯を自宅へ食べに帰って、 汽笛の音に促されて急ぎ足に入場すると云うのも、亦た一種の製麻型で、製麻会社以外には見られぬ、よいならわしであるのである。お茶を工場で貰って、自分の家へ帰って昼飯を食べて来る。と云う


社宅  來寶神社

第三図 製麻の池畔に建てられた社宅     第四図 製麻の池の小島には來寶神社


 唯だこれ丈の事ではあるが、何となく、家庭的で自由な温かい心持ちする行き方であって、職工の心理に良い影響を與え得る(注3)のである。第二図は女工寄宿舎の一部である。 平屋建ての〇の廣い寮舎、さうして庭前には種々の樹木を植え込んで、風致極めて美しいのである。第三は、工場の付近にある。大きな池を 利用して、其岬に社宅を建築し、採光、通風、清涼、風致を計った面白い事例である。第四は、其池の中の島に鎮座した、此の工場に守り神の社である」
 (注1)については大正12年東京府発行の「職工ノ福利増進施設概要」に大小工場の詳細な記載があり、その一部を表2に纏めた。最多職工数は東京モスリン紡織吾嬬工場は現在のダイトウボウ㈱だ。


表2 工場規模の大中を判別した員数とその学歴分類

 日本製麻赤羽工場 

  小学未了 小学修了 高等修了 中学修了 高等修了 合 計

男   159   386   173    18    0   736

女   428   762   209     4     0  1,403

計   587  1,148   382    22    0  2,139


 東京モスリン紡織吾嬬工場 

男   130   269   175    11    0   585

女  1,763  2,172   280     0     0  4,214

計  1,893  2,441   455    11    0  4,799


 (注2)については、東洋紡績の前身の三重紡績が操業開始前(明治19年)に策定し同業各社に敷延したとされる「営業規則」(就業規則)にその違いの要因があろう。 紡績工場は時間に対して厳しい就業が課せられていた。
 「第二条 就業時間は毎日日出より日没までと定め各受持ちの場所を離れず其業に従事すべし。(21年の操業開始より昼夜12時間の二交代制を採り夏季は13時間の長時間となり午後3時に小食があった)
  第四条 毎朝出場は始業時刻より15分前たるべし、而して汽笛を聞いて各其業に就くべし 第五条 休憩時間は午前午後15分間、喫食時間は午下30分間等しく汽笛一声を以 てこれを報ずべきものとす」
 注3)については、日本製麻の広報誌「製麻時報」(大正 年 月号)には「日本製麻会社の職工待遇」との記事がある。筆者は「一記者」としてある。


日本製麻赤羽工場内  日本製麻赤羽工場内

写真4 日本製麻赤羽工場内          写真5 日本製麻赤羽工場内


「職工は工業の中堅にして、其能率の程度は事業の消長に多大の関係を有するは今更云う迄もない。而して是等職工の充実を求むるには主として其待遇を握くし、之れが保護に 努めなければならぬ。是れ云う迄もなく相互の利益であると共に両者提携の楔子である。(中略)同社は疾くより此主義を実行し来つたので会社の今日あるは偶然でない事を知つた。 同社は創業以来一に温情的優遇方法を採り(以下略)」
 なお、両工場とも操業開始が大正4年の第一次世界大戦中の好景気で、職工確保が困難と思える時期の対策ではなかったかではなかろうか。 


就業時間と「製麻のポー」

 同社は大正9年に浦和工場を新設したが、昭和2年に倒産し同工場も閉鎖された。東京日日新聞(昭和2年2月18日号)は次のように報じている。
 「大宮の片倉製糸に次ぐ三百尺の大煙突は前後七ケ年寸時も休みなくもうもうと黒煙を吐いていた製麻の煙がハタと立たなくなり同時に浦和、木崎、与野、土合に重宝かられてをつた 一名物「製麻のポー」も聞かれなくなる。朝六時のポーが目覚まし時計代り九時が役所学校の始業報知で正午と六時の飯時とポーの恩恵に浴しつつ掛時計は買わずにすまして来た家は 少なくなかった」
 昭和4年の工場法施行まで殆どの紡績工場は昼夜二交代操業であり、日本製麻も同様であったことを裏付けるものである。昼組は朝6時より夕6時まで、夜組は夕6時より朝6時までの就業で、日曜を休みとし一週間おきに交替していた。 前述の同社職工待遇に記述では「休業時間の増加 寒暖の候には操業時間昼夜業共各30分宛短縮し勤務上の労苦を減じ休業を為さしめ労務上より来る疲労の恢復を図り元気の作與に勉めて居る」とあり、ここでも昼夜二交代であると分る。
 浦和工場と同様に赤羽工場でも「製麻のポー」は内外に鳴り響いていたはずであり、大正時代の赤羽界隈の風物ではなかったかと、思い巡らす。


日本製麻浦和工場

写真6 日本製麻浦和工場 現在の常盤町にあり、倒産後藤倉ゴムの工場となる 


「製麻時報」

写真8 日本製麻の広報誌「製麻時報」掲載の記事

 
  地域史1   

「トト姉ちゃん」のトトは赤羽(北区)に来ていた~大橋武雄と日本製麻

                            北区史を考える会 置き薬協会 有馬純雄
 NHKの朝の連続ドラマ「トト姉ちゃん」が好評である。ヒロインのモデルは、「暮しの手帖」を創刊し た大橋鎭子。タイトルの「トト姉ちゃん」は、父親の役割も果たすので付けられたヒロインの仇名である。 そのトト、父親が日本製麻㈱に勤務していた事を知り、数年前に同社を研究したこともあって、早速、大橋 の生涯を綴る著書「暮しの手帖と私」を買い求めた。
 父親の大橋武雄は、現在の岐阜県大垣市に生まれ、10歳の時に東京市深川区の材木商、大橋谷吉、き ん夫妻の養子に入った。府立一中在学中に、級友に誘われ北海道帝国大学に入学。大学在学中に妻と なる宮原久子と知り合い卒業後に結婚する。


日本製麻㈱本社社屋 帝国劇場裏、現在の新国際ビルのある位置 大正8年頃 大戦景気の賜物。


大正4年の操業開始当時の日本製麻㈱赤羽工場 右角の入口が現在のみずほ銀行支店の位置 工場左角が現在のダイエーとなる  左の屋根は赤羽(岩淵)小学校 当時の飛行機の翼は麻を用いるため赤羽飛行機製造所(岸一太)が本工場の裏に有り、 また帆船の帆の工場など周辺には関連業者が集まった。

 就職先は、日本製麻㈱。入社の大正8年3月の一か月前に、同社は第一次世界大戦の戦時景気で 飛躍的に発展し、日比谷の帝国劇場裏一等地に地上3階地下1階の本社ビルを竣工させていた。鎭子 は9年3月に誕生し、大正10年に大橋武雄は北海道小沢工場の工場長として赴任する。入社から工場 長就任までたったの2年である。大学出とは言え年齢も24、25歳の若者が工場長に就くのは、生産増 加のため管理職の員数が逼迫していたからだろう。大正2年の同社創業から大正10年の僅か8年間に 、北海道に19か所の工場を設置しているのが、その裏付けである。また、当時の大学出の管理職、所 謂「ライン」はそうだった。
 北海道の各工場は製線工場と言われ、原料から繊維を取出して紡績し、 その糸は集荷され東京府北豊島郡岩淵町赤羽の製品工場に送られ用途に合わせて様々に製品化されて いた。
 武雄は入社から北海道に赴任するまでの2年間、本社勤務と思われ、赤羽工場には様々の事由 で来訪していただろう。また同社は9年に主に蚊帳製造の浦和工場(常盤町)を竣工し稼働させてい る。
 武雄と妻久子、長女静子を引き連れての小沢工場の赴任の後、岩見沢工場、虻田工場と道内(地図 参照)の工場の転任を重ねるなか、結核で体調を悪化させ大正15年に退職する。それは日本製麻㈱が 帝国製麻㈱に吸収合併(過剰設備と輸出激減の構造不況対策で政府主導による。昭和2年の金融恐慌 の端緒となった東京渡辺銀行は日本製麻の主力銀行。赤羽工場は以後帝国製麻倉庫となった。)され る前年だった。


「帝国製麻30年史」掲載の製麻企業の製線工場分布図。寒冷な土地を好む亜麻は、戦前まで北海道 の最大の農業生産品だった。戦後、化学繊維の発展により、その生産は壊滅的となった。現在は、健 康食品として注目される亜麻仁油生産のため少量が生産されている。因みにLINE(線)は亜麻の 形状が由縁とされている。「亜麻色の髪の乙女」の亜麻色とはブロンドの事。亜麻糸を脱色しない色 である


大橋の著書「暮しの手帖とわたし」で日本製麻㈱の説明に「日本橋の日本製麻」としているが、これ は誤り。日本橋のそれは帝国製麻㈱である。このビルは昭和39年に大栄不動産へ売却され平成4年 に解体。


旧 大栄不動産㈱本社ビル (元帝国製麻㈱本社ビル) 概要

旧 大栄不動産㈱本社ビル (元帝国製麻㈱本社ビル) 概要

地域史研究者 有馬純雄(北区在住)

大栄不動産㈱本社1階ロービーに展示される模型

参考資料

  • 1.「麻業の友第88号」(大正4年9月20日発行、帝國製麻 製麻倶楽部刊)
         通信P14~P18「本店通信」本店 板谷淇水著
  • 2.「帝國製麻30年史」(昭和12年10月30日発行、帝國製麻㈱刊)
  • 3.「製麻時報第2巻第3号」(大正8年3月15日発行、日本製麻㈱社内報)
       「製麻側面史、追懐談(6)甘辛堂主人(宮内専務)談」
  • 4.「工学博士辰野金吾傳」 白鳥省吾著 辰野葛西事務所刊(大正15年)
  • 5.「辰野金吾 美術は建築に応用されざるべからず」
         河上眞理 清水重敦著 ミネルヴァ書房刊
  • 6.「日本財閥経営史 安田財閥」 由井常彦著 日本経済新聞社刊
設 計   辰野金吾、葛西万司(辰野、葛西設計事務所)大正元年11月完了
「新式、美観、広壮ではなく安政大地震級の大地震にも耐えられる設計」(30年史)
施 工   清水組(現清水建設(株))
構 造   地上4階建て、地下1階、屋上階に露台、ルネッサンススタイル、鉄骨煉瓦造
  ただし鉄骨による床構造は3階までで、4階床は木造と思われる。
竣工した日本橋 手前に市電仮橋
竣工した日本橋 手前に市電仮橋
左の大きな屋根が旧本社 着工直後
左の大きな屋根が旧本社 着工直後
鉄骨組立中で4階床構造がない
鉄骨組立中で4階床構造がない
上棟式の写真も同様で木製なのか?
上棟式の写真も同様で木製なのか?
住  所 明治~大正期 日本橋区品川町裏河岸第17号~第20号(旧本社は第3号)
昭和期 日本橋区室町1丁目1番
  現在 中央区日本橋室町1丁目1番8号
大正初期の日本橋と帝國製麻本社屋
大正初期の日本橋と帝國製麻本社屋
「日本橋周辺の建物(西川商店、伴傳、大倉書店、村井銀行、森村銀行、あかぢ貯蓄銀行、国分商店、三越)に比較して規模は小さいが、自社の業務のみに使用されるのが特徴で、本社社員、地方在勤の社員共に喜ぶ」と社内報「麻業の友」には記されている。


北区史を考える会会報に掲載された、平成27年10月25日開催の
第394回月例定例会の発表を抜粋した記事はこちら>>


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