旧 大栄不動産㈱本社ビル (元帝国製麻㈱本社ビル) 概要

製麻余話


赤羽と日本橋

大正4年開業当初の日本製麻赤羽工場

赤羽の発展のきっかけは、大正4年開業の日本製麻(株)赤羽工場にある、としたのは、私の研究発表「大正を駆け抜けた赤羽の光 日本製麻~リネンと理念に憑かれた男達」( 北区史を考える会平成24年11月定例会)である。その調査の最中、帝國製麻(株)本社屋を知り、ここ1年ばかり調査に当り10月定例会で発表させて頂いた。


大正9年の赤羽。
写真下中央から右に拡がる日本製麻工場。

日本橋の傍らに丁度、屏風の様に建てられ、日本橋を写す風景には必ず登場し、肉眼で或いは写真、映像で見覚え有る方もおられるだろう。
あの赤煉瓦造のビルだ。日本製麻は昭和2年に帝國製麻に吸収合併され、赤羽工場は倉庫に転用され終戦を迎える。 赤羽と帝國製麻との縁はそこにあるにせよ、また別に日本製麻設立(大正2年)と帝国製麻本社屋建設は浅からぬ因縁があったのだが、それは後述する。



昭和30年代前半の日本橋と帝国繊維本社屋。

このビルは関東大震災の火災、第二次世界大戦の被災を掻い潜りながら昭和39年に帝国繊維(株)(過度経済力集中排除法により昭和25年に分割され34年にその内の二社が合併した企業)より大栄不動産(株)に譲渡され、昭和62年に惜しまれつつ解体された。 現在、同地に同社(りそな銀行系列のデヴェロッパー)の本社ビルが建設され、その1階ロビーには旧社屋から切り取られた丸窓とその周囲の石造レリーフが展示されている。



竣工後の帝國製麻本社屋と日本橋。
奥に三越。

大正元年11月設計完了、同3年2月着工、4年8月竣工の帝國製麻本社屋の設計者は辰野金吾。辰野は日本銀行本店、中央停車場(現東京駅丸の内駅舎、大正3年竣工)で知られており、全国各地に228棟(「辰野金吾傳」より)の辰野式作品を残している。辰野設計の作風はどっしりとした安定感だと言われているが、帝國製麻本社屋はそれらとはだいぶ違う希少な存在だ。日本橋川岸に面する40坪に、屋上付き地上4階地下1階建てで、その大きさは長さ35.55m 、高さ26.31m、東側幅5.28m 、西側幅7.65m の鉄骨煉瓦構造。妙に細長い形状から建設当時は「軍艦のような建物」と寸評されていた(帝國製麻社内報「麻業の友」より)。



帝国製麻初期の本社。土蔵造り。
魚の廻送店だった。

この土地は以前は市有地であり、同社の本社はこの裏手の土蔵造りの商家(所有地、百六坪)が用いられていて、本来ならそれを取り壊して建てられるのであろうが、そうならなかった。「帝國製麻三十年史」には次の記述がある。
「而して川岸即現在社屋の場所には土蔵倉庫二戸前が竝んで居て貨物は皆船便で積卸していたのである。大正二年社屋新築のこととなり辰野博士の設計で清水組(現清水建設)之を施工大正四年八月落成、其の月の十六日に移転した。日本橋は明治四二年に現在のものに架換えられ帝都の一美観とされていたためにこれを対照として相互の均整と都市美を高揚する事に辰野博士が深く意を用いられという事は専門家に有名な話である」 つまり、美しい都市景観形成のため、所有地の半分にも満たない狭隘な借用地(市有地)に建設する辰野案を帝國製麻は受け容れたのである。



鉄骨が組みあがった状態。
4階の床面には鉄骨がない構造。

同誌にはまた「新式、美観、広壮ではなく安政大地震級の大地震にも耐えられる設計」ともあり、華美に走らず実質を重んじる安田善次郎の意向と、辰野の耐震を重んずる意識が感じられる。なお、内部については「麻業の友」より別途まとめた。


部屋と部署配置


震災後の日本橋と帝國製麻本社屋。

1階

受付、第一応接室、営業部(販売課、記録課)、工務部(作業課、経理課)、第二応接室、倉庫兼検査室、
両端に階段東側に正門、西側の社員
通用口

2階

書庫、庶務部(庶務課、会計課)、 第三応接室、電話交換室、文庫、中央階段

3階

役員会議室、社長室、2部屋の常務室、秘書役場監査室(調査課、秘書課)


4階

陳列室、会議室

屋上

アスファルト敷、クリケットが出来る広さ、4尺の囲い

地下

暖房室、食堂、金庫室、宿直室、小使室

設備

東端に屋上までの螺旋階段、1〜3階に洗面所、水洗便所設置、床面はリノリュウム貼、4回線の電話を引込み交換手により21台の電話機を各所に設置、電灯90灯、80余りの窓に川嶋甚兵衛氏の織物カーテン



石を巻きピクチュアレスクを被る東京火災保険会社。

   「東京震災録別輯」には、社員通 用口のシャッターが大地震で壊れて周辺の炎が入り内部が延焼したとある。当時、役員と従業員が95名いたともある。

辰野金吾について

辰野金吾設計の建物に共通する特徴を捕らえて「辰野式」とも言われている。これに関して「辰野金吾  美術は建築に応用されべからず」(河上眞理、清水重敦共著)には次の様に記している。


   「辰野式の特徴様式は、古典様式を生かしながら、ゴシック様式の細部形式を混入させつつ、独自の変形を加えたものとなっている。 イギリスではクイーンアンあるいはフリークラシックと呼ばれる建築様式の一種である。イギリス本国では、古典様式の骨格に垂直性を意識したゴシックの表現が加味されて軽やかさと上昇感がもたらされ、さらに細部意匠が切哀されあるいは自在に変形されるのに対し、辰野式では左右対称性が意識され、全体として安定感のある構成をみせるものが多い。壁面意匠は、赤煉瓦に白色の石がストライプ状に入れられた独特の華やかさを持つ。当時は白石を「帯石」や「帯形」と呼んでいた。「辰野式」で最も目に付きやすい特徴だが、この表現自体は、19世紀イギリスで流行したものだった。



辰野金吾(1854~1919)。
仇名は頑固ゆえ辰野「堅固」。

そして辰野以前にも既にコンドルが海軍省(明治27年)で、妻木頼黄が東京商業会議所(明治32年)でこの表現を用いた。しかし辰野はこれを自らの設計に繰り返し用い、また、柱頭、 窓廻りにも白色の石を用い、全体に紅白のツートンカラーの建物という印象をもたらしたため、この表現は辰野式、と見られるようになった。(中略)ボリュームある隅部の塔屋や、個性的な形状のドーム屋根によって形成される賑やかなスカイラインにも特徴がある。古典様式の美学とは対極に位置す る、不規則性や変化に特質を持つ「ピクチュアレスク」と呼ばれる表現手法である。欧米のピクチュアレスクに比較しても、「辰野式」の塔屋は圧倒的な存在感を見せる」



兜町河岸の澁澤栄一邸は
ヴェネティアのパラッツオ風設計。

   帝國製麻本社屋に見られる「辰野式」の特徴は、4階と2階部分に帯石が施された事、また屋上東側にピクチュアレスクのドーム塔屋が有る程度で、かなり控えめ。何よりも屋上を備え、また2階、3階の日本橋川側にベランダを備えているのが、他の辰野式建築には見られない特徴である。近似するのは、辰野が設計した近隣の兜町の川に面する渋沢栄一邸(明治21年)で、イタリア、ヴェネティアのパラッツオ(住居兼商館)をイメージしたと指摘されている。
帝國製麻本社屋の設計に当っては、前述の日本橋との対照と、日本橋界隈の近代都市としての発展を商業都市ヴェネティアをモテイーフに謀られたのではなかろうか。


帝國製麻について


宮内二朔
帝國製麻支配人を辞め日本製麻専務となった。

帝國製麻とはどのような企業だったのか。「日本財閥経営史 安田財閥」(由井繁彦編)には帝國製麻について次のように著されている。
 「帝國製麻は、日本の主要な近代鉱工業のなかでは、最初の名実ともに市場独占的企業とも言うべき存在であり、当時他の有力紡績企業を凌ぐ640万円(払込み済み400万円)の大企業となった。明治39年に安田善次郎は日本製麻の株式の買増しを続け、帝國製麻の設立に際しては、安田家(善三郎以下9名、保善社所有)の持株は二万五千株(額面十二万五千円)に上り、二位の大倉喜八郎の五千四百四株を遥かに引き離す圧倒的な大株主になった。安田善次郎が単に出資に留まらず、株式の大量所有に進んだ動機には、この時期に同社に対する支配と経営の意思の存在も窺わせる。大合同による帝國製麻の創立に関しては大量の持株を背景として、安田善三郎(善次郎娘婿)が社長に就任、支配人には宮内二朔が座り、同社は安田の関係行社となった」



文中の支配人宮内二朔は、日清戦争後に生産過剰から構造不況に陥った製麻三社(近江麻糸紡織、下野製麻、大阪麻糸)を合併させ旧日本製麻の創立に尽力した中心的な存在で、その本社を日本橋脇の商家に置いたのも宮内の手腕に拠るところだ。日露戦争後の供給過剰の解消のため、旧日本製麻と北海道製麻が合併し設立されたのが帝國製麻である。帝國製麻支配人となった宮内は品質向上と規模拡大のための設備更新を計画したが、会社役員、つまり安田財閥側からは拒否され、大正2年2月に退社する。前述の百六坪の会社所有地に本社屋を建設すると唱えたのは宮内で、狭隘な借用地に建設する辰野案を支持する安田財閥側に潰されてしまったようである。この経緯は、日本製麻の社内報「製麻時報」に宮内の述懐として掲載されている。
 宮内はその後、支援者と共に日本製麻を大正2年7月に設立し、赤羽に工場を4年7月に操業を開始し赤羽発展の基礎を作るのである。帝國製麻本社屋建設と日本製麻の設立から工場操業までは、機を一とする進行であるのが興味をそそられる。


辰野金吾と帝國製麻


「銀行王 陰徳を積む 安田善次郎」表紙

ところで、辰野案を受け容れた帝國製麻役員と辰野金吾との関係である。帝國製麻設立の明治40年から二年間相談役だった渋沢栄一とは、辰野が英国留学後の初作品となった「銀行集会所」の総代が渋沢であり、辰野は還暦祝いの席上、渋沢には終生世話になった感謝を述べている。安田善次郎も相談役で、辰野が日本銀行本店設計と管理に携わる「工事監督」の時に安田は「建築事務総監督」(建設総責任者)を勤め、支配下の第三銀行本店増築工事、安田商事大阪事務所の設計と工事管理を辰野に依頼している。こうした太い関係の中、帝國製麻の存在を世に知らしめ、会社組織の統治を堅固にすべく新社屋建設の機運が生まれ、設計は当然のように辰野に依頼された。辰野は「都市美高揚」との理念を以て設計に臨んだと想像される。それが日本橋を対照として、相互の均整がとれた高層の赤煉瓦建物の出現だった。



大栄不動産1階ロビーに置かれた精密模型。

さて、冒頭に記したように大栄不動産本社ビルの1階ロビーには、旧社屋の丸窓とその周囲の石造レリーフが置かれており、更に映画「3丁目の夕日」の撮影に製作された精密な複製模型が展示されている。一般に公開されておられ、機会が有れば、お立ち寄り頂きたい。本ビルが竣工して丁度百年、大正時代へのタイムスリップである。



丸窓のレリーフには
亜麻の花や麻糸紡織機の滑車が彫られる。


左が大栄不動産本社ビル。旧ビルの面影がある。


有 馬 純 雄

第394回 月例研究会 2015年10月25日(日)
会報掲載


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